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★ LED ZEPPELIN ☆ S.R.vol.345' -west wind- * Side-B-6 [LED ZEPPELIN]


LED ZEPPELIN ~ Tangerine (Live 1575)



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LED ZEPPELINLED ZEPPELIN Ⅲ』(1970)



 [わーい(嬉しい顔)]  
私にとってツェッペリンというのは『古事記』とか『日本書紀』みたいな存在で(笑)いちおう、向学の為にパラパラやってはみましたけれど、個人的には興味がありません。

いや、パラパラなんてもんじゃないな。

メシもロクすっぽ食わず、娘が心配してコンビニおにぎりを差し入れてくれたのをかじり、受験期の息子から取り上げた机に突っ伏して限界のうたた寝をしてまで聴きまくった 1991年。

その眠気覚ましに書き散らしていたノートに『LED ZEPPELIN Ⅰ』(1969年) も、全 9曲の 1つ 1つの感想が書いてあります。

おそらく、空白の 27年間を埋めたかったのでしょうねえ・・・(←他人事w)


私は生まれつき病弱でした。

へその緒を首に巻いた逆児だったそうで、逆さまにして背中を叩いて初めてオギャーと泣いたという、根っからの横着者でもありますw

それで負担がかかったのでしょうね、小学校 4年生の時に心臓肥大と診断されて、日常の過激な運動などなど、けっこう制限されました。

今でも風呂があまり好きじゃないのは、
「ぬるいお風呂に、さあ、これから入るぞ、と自分に言い聞かせて、ゆ~っくり入って、直ぐに出るように」
と言われた医者の言葉が、すっかり落ち着いた今になっても耳に残っているからだと思います。それってメンドくさいでしょ?w

その心臓肥大の合併症が、子供から大人になる高校 2年生の時に出ました。

ほとんど登校できず、両腕が静脈注射の跡で紫色になっていた以外は、信じられないくらい記憶が欠如しているのです。


記憶の欠如に気がついたのは修学旅行のアルバムを見ていた時でした。

私の修学旅行は、中学も高校も、同じ京都・奈良に行っています。だから、あそこでああしてこうしてと、普通にお喋りしていたのですが、高校の時のアルバムを見た時、え? 私、こんな所に行った覚えがない・・・こんな写真、撮った覚えがない・・・

中学の時に親友がいました。
高校の時も別の親友がいました。
いつも行動を共にしていました。

だから余計に気がつかなかったのですね、親友とあそこでああしてこうしてが、全部、中学生の時の記憶だったということに。


それに気がついて、慌ててアルバムをめくって確かめてみると、小学校 3年~5年の途中頃と、16、7歳~23歳頃の記憶が非常に曖昧だったり、ぼやけていたり、欠けていたり。

その後も 40歳過ぎまで、かなり欠けているのです。確かにそこに私が映った写真があるのに、覚えがない。覚えていたとしても、まるで他人のことのような感じがしたり。

体力の衰えというのは精神にも異常をきたすのでしょう。記憶喪失になったことなどないのに、ただ寿命のまま生きさらばえていた無気力の日々。


43歳の時に前庭神経炎という病気をやりました。メニエールとほとんど同じ症状ですが、難聴だけは伴わないウィルス性の病気です。

私は比較的軽かったので、自分で意識しない時に左側にヨロッとよろけるくらいの後遺症で済みましたが、重い人だと病院のベッドに寝たきりとか車椅子だとか。

でもそれがキッカケで、宇宙を漂っていたらしい私の魂を、あの 1990年の夏の日に、水平線の彼方に見つけたのでしょうか。

そうとしか思えないのですが、あの日から、忘れていた音楽を、少しづつ、少しづつ、思い出して行ったのです。高校の初め頃まで大好きだった音楽を。


あと数日で 45歳になろうとしていた 8月半ば。暑かった覚えがないので、すず風が吹いていたのかも知れません。眼下に、遠く水平線の彼方まで広がる海原を、ぼんやりと眺めていた時、自分でも思いがけない言葉を口にしたのです。

「広々した所に行きたいな・・・」

なに言ってんのよ。水平線が見えんじゃねえのという息子の言葉で吾に帰り、なんでそんなことを言ったんだろうと、あれこれ理由を探していた数日後、またもや、自分でも信じられない言葉が口をついで出たのです。

「だれか、マウントフジに連れてってよ」


〔マウント・フジ〕というのは、ジャズ・ファンなら知ってると思う、毎年、8月の最後の 3日間、山中湖の湖畔で開かれていた、世界的にも知られたブルー・ノートの祭典です。

やっているのは新聞などで知っていましたが、今まで行きたいと思ったことなどなく、どうしてそんなことを言ったのか分からないまま、その気持ちは日に日に強くなって行きました。

しかし、「だれか」といっても娘と息子だけ。二人ともジャズなんて興味がなくて知らんぷりしていました。

「ねえ、連れてってよお!! 今年行かないと、みんな死んじゃうよー!!!」

一週間くらいワメイていたそうです。堪りかねた娘がついに言いました。

「そんなに行きたきゃ、ひとりで行けばあ?」(なんて薄情なヤツなんだ\(◎o◎)/!)


その頃の私は前庭神経炎をやって間もなくて、山中湖までバスが出ている 1駅先までも、一人では行けないでいました。

だけど行って行けない距離じゃない。そうは思っても、世界的なジャズの祭典に27年も音楽から離れていたオバンが一人で行くというのは、やっぱり気が引けました。

段々と諦めて、そしてすっかり忘れていた 2カ月後のある日。

新聞を広げた瞬間、私はそのまま固まったのです。

そこには、中学から高校にかけて大好きだったアート・ブレイキーが、あの、夏の山中湖のステージを最後に、他界したという訃報が載っていました。


ヒマしてたら、私の個人的な回想録

)★ S.R.vol.345' -west wind- * Side-B-6
   
 LED ZEPPELIN

(― )

)★ S.R. vol.346 -breeze one- * Side-A-1
   ☆ Hold Your Last Chance

(natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-203.html )

)★ S.R. vol.348 -No Conception- * Side-A-2
   ☆ ELVIS PRESLEY

(natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-672.html )

)★ S.R. vol.346 -breeze two- * Side-B-1
   ☆ HOUND DOG

(natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-208.html )




ART BLAKEY AND THE JAZZ MESSENGERS
    ~ No Problem (1960 -『危険な関係』)




という、上の話をして、この曲を流すと、年齢からいっても私がジャズ・ファンだと思うらしいジャズ・ファンの人たちが、別ブロにも盛んに訪れて下さるのですが、 私はこの曲だけが好きだっただけで、ジャズにはまるで興味がないし、 ブレイキーも 1961年に TV 放映された来日映像での “笑顔” に惹かれただけで、他の曲には関心がありませんwww


1990年代の中頃に、第二期ロック黄金時代の下り坂と交叉して、ジワジワとジャズが登場してきました。

隔世遺伝が最も出やすい遺伝学から言えば(笑)その当時の高校生あたりの祖父母が、ビッグバンド・ジャズ世代ですね。

それで最近は高校生あたりでもジャズが盛んだったりしますが、1990年代の初め頃は、高校生あたりでジャズを聴いてるなんてのは、よっぽどの変わり者、いえ、高尚な人だけでしたwww

それでもこの曲を聴かせると、「ジャズってもっと違う音楽だと思ってた。これなら聴ける。○○さんがスンナリ HM/HR を聴けたのも分かる」 と、みんなが言いました。


この曲は、著名なマイルス・ディヴィスによる『死刑台のエレベーター』より前に、ヌーベル・ヴァーグのロジェ・ヴァデム監督が企画して、セロニアス・モンク(ピアノ)のために作曲されたのですが、 モンクのパリ公演がキャンセルになってしまったために、映画の中の音だの、サウンド・トラックの音だの、口パクだの、なんだかゴチャゴチャになってしまったもので、最終的にはこのブレイキーの演奏が最も知られています。

そういえばマイルス・ディヴィスが亡くなったのも、ブレイキーの死から 1年近い時だったなあ・・・他にも大物ジャズメンが次々と・・・

あ、ついでに(笑)TV-CM で、いきなりマイルス・ディヴィスの顔が出るのに、バックに流れているのはブレイキーの代表曲で、だけど字幕は「マイルス・ディヴィス」と出るという、ワケ分かんないものが流れましたねwww

まあ、あれを買う人は往年のジャズ・ファンで知ってると思うからいいけど、それでもブレイキー・ファンとしては気になるので(笑)その曲を・・・あれ? モーニン’でしたっけ?




ART BLAKEY AND THE JAZZ MESSENGERS ~ Mornin' (Live in TOKYO 1961)



初来日の映像です。そうそうたるメンバーだったんですねぇ・・・当時の片田舎では音楽情報もなかったですから知りませんでした。

というか、そうそうたるメンバーだから、団長(!)のブレイキーが映ってないじゃん!!w


中学生の時でしたが、来日公演が、当時としては画期的だったと思う TV 放映されて、ブレイキーがとっても楽しそうにドラムを叩いているのが映って、それを見ていた私も楽しくなりました。

それが私の “音楽” の原点です。


ということで、この 3年後に日本でもベンチャーズが大ブレイクして、その頃の変わり者、いえ、高尚な方たちはボチボチとビートルズを聴き始めたりして・・・

あたりから 1990年の、あの夏の日まで、私の音楽鑑賞歴は空白でした。

それで、歳からいったら当然知っているであろう「ツェッペリン」というものも、1929年(昭和 4年か 5年)にドイツの飛行船ツェッペリン号が日本にも寄港して、茨城県の霞ヶ浦に降りた時、千葉県の上空を飛んで行ったのを、父は見たんだって!!!というものでしか知らなかったのですwww

そういえば、あれを思い出したわ\(^o^)/




NAT KING COLE and CITY OF PRAGUE PHILHARMONIC
           ~ Around The World In 80 Days (1956)




優雅ですねえ・・・

あのジュール・ヴェルヌが、スエズ運河が開港したことを記念に書き下ろした小説を、ハリウッド黄金時代に映画化した、痛快冒険活劇ドラマ!!

下 僕「ガ~ス! ガスを停めてくるのを忘れました!」
主人公「構わん。君の給料に付けておく。」

というのは前にも載せているので、今日はナット・キング・コール・バージョンをw

なんてことをやってる場合じゃありませんね。

ツェッペリンの中でも好きな曲が 1つか 2つ、あるにはあるんです。

これなんて結構好きかもという曲で(↓)〆ます (^^♪




LED ZEPPELIN ~ Going To California (1971 - Live Earls Court 1975)


ロバート・プラントさんが蚊にでも食われたのか、ツバをつけて手をこすってるんですけどwww

アルバムでは、歌に入る前に大きく息を「ふふふふぅ!」と吸い込んでいる音が入ってて、それはカリフォルニアの大気を吸い込んでいるのか、それとも歌う前の単なる深呼吸なのか、私の長年の疑問で、それでこの曲が好きなんですwww

と、1 カ月以上ぶりの雨(これは 2011年 5 月に書いたものを転載しています)で、これでやっと、サハラ砂漠よりもカラカラだという湿度が解消されたでしょうから、ついね、干からびから粉末になっていた私も、水を得た魚の如く、お喋りしちゃいました。

ではよいお年を・・・じゃないなあ・・・




STORM SERIES ―もくじ―
(psycho-country.blog.ss-blog.jp/2021-02-28 )
S.R. vol.345' ☆ Side-B
(psycho-country.blog.ss-blog.jp/2015-01-31-2 )


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